sign.png山梨県立甲府第一高等学校 昭和52年卒業生ホームページ

こんな思い出が来ました。

━━━投稿者名 : やってもできない子

  • エピソード : 体育会系のごく一部の生徒ですが、前店?横店?(男子の集まる方)ではツケで飲食をしていたとか?店内に大学ノートが置いてあり、それに「煮込みうどん、プラッシー、〇〇部〇〇」とか書くとOKでした。高校生の時からツケなんて今では考えられないなぁ。未払いのある方は至急お支払いを。

━━━投稿者名 : 強行遠足大好きおばさん

  • 一高1年の強行遠足は、私の人生の中で快挙でした。
  • テニス部では、女子は50番以内に入らないと退部!と言われひぇ〜(/ロ゜)/。毎日駅伝コースをランニング、結構キツかったな。でもでも当日は清々しくて景色に感動しながら、何と3位!自分でも信じられない位嬉しかったしよく頑張りました。2年時はドクターストップ、3年時は雨で中止、唯一の栄光です。あの感動は生涯忘れられない。自分を信じて小さな目標を重ねて進んだ経験は今でも思い出して励みにしている。一高強行遠足に感謝、感謝。バンザ〜イ!

━━━投稿者名 : Nietzsche

  • いまでこそ「心臓に毛が生えてる。」と言われる僕ですが、生まれながらに病弱で一高に入学した当時は手術後5年目でした。僻地と言われる山梨県東部の村から一高に入ったのですが、実は一高に「強行遠足」なる行事があるのを知りませんでした。そんなこともあって、術後5年目の僕は1年生の時は参加せず。2年生になって慣らしで臼田まで。3年生でやっと歩き切りました。空手部だったにしては慎重でした。
  • そうそう、3年で最後だから頑張って歩いていると、あと10キロメートル地点で消耗しきっていたS君に会いました。彼はすでに過去2年間は完歩しているので、そこでやめようと思っていたようでしたが説得して一緒にゴールを目指し完歩したことはいい思い出です。

━━━投稿者名 : 勘違い女子

  • 一校男子は今、髪の毛の長さが耳にかかるとNGで、髪の毛検査で厳しくチェックされるそうです。あの頃は、長髪もリーゼントもありだったのに。そういえば、男子も女子もいわゆるヤンキーはいなかったように思います。みんなそれなりにお洒落というかスマートだったような、、、。当時の生徒手帳を持っている人はいますか?服装や髪の毛の規定はあったのかしら?一校は自由な校風で、他校に比べるとかなり校則は緩かったと思います。タンクがそれについて「おまえらを信じているから自由にさせているのだ」みたいなことをいったような記憶があり、私は「なるほど、信じられているのだ。じゃあ、私はOK」と勝手に思っていました。

━━━投稿者名 : 幻の皆勤賞

  • あの栄光の読売巨人軍がV10を逃し、長嶋茂雄が引退を表明した日(昭和49年10月14日)の朝、1本の電話が自宅に鳴り響いた!電話に出ると相手は当時姉と付き合っていたサッカー部のS先輩でした、なんと姉が家出したので、そこで弟のお前も一緒に捜してほしいとのこと!
  • それまで皆勤賞だった私は一瞬ためらいましたが、嫌とは言えず、親にも学校告げずに先輩と姉の女友達と3人で捜索に出かけました。
  • 私には何処を捜してよいの全然見当もつきませんでしたが、愛の力が強いのかS先輩は、隣の県の県庁所在地の駅のベンチにいることを予想し、見事そこで佇んでいる姉を、発見無事に連れて帰る事が出来ました!めでたしめでたし!じゃねぇよ!俺の皆勤賞返しくれよ!今となっては青春の良い思い出?

━━━投稿者名 : They is likes she.

  • 応援練習というのがありましたが、かなりの時間を割いて実施されたように覚えています。実際にどの位の日数やったのか、判る人いますか? それから、応援練習のときに先生方の姿を見なかったようにも思います。先生が一人だけ背を向けて座っていた、という話を聞いたことがありますが、本当ですか?

━━━投稿者名 : 白夜のプリンス

  • 風の噂だけど、○組の卒業アルバムの寄せ書きは、とても人には見せられない代物で3回も書き直しをさせられて、やっとあの状況らしい。

━━━投稿者名 : 一高祭学芸の部担当

  • 一高祭には、学芸の部(いわゆる学芸会)というのがあったのを覚えていますか?講堂で各クラスが演劇を披露するというもの。
  • 私が男子クラスであった2年生時、何故か総合演出と脚本を担当することになって、出演者全員のビフォアーレコーディング(ビフレコ)なるものを提案。台詞を覚えるのも大変だし、予め台詞を録音し、録音テープを流しながら口パクで演劇を進行させるというもの。男子クラスゆえ、女子の声だけでも欲しいと提案すると、M君がお気に入りの他クラスの2名の女子を連れて来て、放課後の化学室で面接し、採用が決定。M君立ち会いのもと、メッチャ楽しくビフレコをしましたね。
  • 当日の演劇では、ビフレコの為、台詞もBGMも鮮明だったし、とちりも無いので、結構イイ感じでした。
  • 3年生時のクラスでの演劇の総合演出と脚本も、私が担当することになり、演出にM君を加え、2年目となるビフォアーレコーディング(ビフレコ)を踏襲。3年生時は理系ながら女子もいるクラスの上、演劇部のヒロインもいたので、彼女に主演を依頼。さすがヒロイン、最後の台詞だけは、生声で言わせて欲しいとの要望があり、承諾。
  • 当日の演劇では、タラのテーマのBGMをバックに、演劇部のヒロインの生台詞は、それまでのビフレコとの強弱もあり、メッチャイイ感じでした。
  • よくある、主演女優と演出家のその後は、ご想像におまかせします(笑)

━━━投稿者名 : 俺が剣道部にいたことがあるなんて、誰も知らない

  • 僭越ですが、一高時代のプチ自慢をしま〜す!
  • 父も母も出身である一高に入学して、父が0Bでもあった、とある運動部に入りましたが、先輩方にしごかれて直ぐに退部。そして帰宅部に
  • 一見根性なしと自分自身も思っていましたが、強行遠足では、1年では19時間50分で完歩404名中182位、2年では18時間50分で完歩455人中107位、3年では18時間15分で完歩347人中39位と小諸到達V3を達成!“栄光の315kmの覇者”と成りました。
  • しかも、3年間の“正皆勤賞”をもゲット!確か52年卒では、4人しかいなかった。皆勤賞を取ろうと思ったきっかけは、1年生時の担任であったシミケンが何気に言った「皆勤賞が取れるもんなら取ってみな」という発言に「それじゃ、取ってやろうじゃないか!」と何気に思ったこと。その後1〜2年生時は、ほとんど意識していませんでしたが(2年生時の1時限目の体育は着替えてから点呼なので結構シビアだった)、さすがに3年生時は、ちょっと意識しましたね。まあ、これは、私が一人で取ったのじゃなく、毎朝キチンと起こしてくれて、遅刻しそうな時は、車で一高まで送ってくれた家族に深く感謝です。ちなみに皆勤賞の賞品ってのがあって、当時は『広辞林』でした。

━━━投稿者名 : 一高のイケメン君の友人

  • 一高祭のお話。第27回テーマは「白いキャンパスに絵をかこう!」第28回テーマは「我が日新の鐘ひびけ!」第27回テーマは「心で語ろう!」だったとか。全く記憶がない。
  • エンディングでのファイアーストームのもとのフォークダンスもよかったですが、記憶に鮮明なのは、2年生時、学区外のイケメン君が招待した、見た事もない制服(セーラー服のラインが緑とか)の女子が、次々と来校。他の女子とのダブルブッキングの時、イケメン君から何故か私にアテンドを頼まれたことがありました。さすがイケメン君、来る女子、来る女子が結構カワイイのでビックリしましたね。さすがイケメン君、他校でも大人気でした。

━━━投稿者名 : 気になる他校の女(こ)との交流事情通

  • 総合体育大会という日は、日中堂々と?他校とのコミュニケーションがとれるので、南高の女(こ)や二高の女(こ)や商業の女(こ)とイチャイチャする者がいましたね。
  • でもメインは、夏休みの県立図書館のクーラーの効いた自習室。一緒に勉強しようと誘って、イチャイチャする者。誘う女(こ)がいない輩(やから)は、お目当ての女(こ)がいつも座る席がみえる位置の席をキープしていた
  • 一方、一高内では、グループ交際と称して、映画に食事にと、常に複数で行動しているように見せかけて、実は、しっかり二人だけで抜け駆けしていた者もいました。
  • 御崎神社のの境内の呼び出して告ったら、神のご加護があったとか、放課後、偶然を装ったように待ち伏せして、自転車で一緒に帰った輩(やから)もいましたね。

━━━投稿者名 : 当時の一高ランチ事情通

  • やっぱり、一高生の楽しみと言えば昼食!ってことで、当時の私は、出回ったばかりのランチジャー(当時のものは、ガテン系労働者が持っていた楕円柱型の結構大きいもの)を買ってもらい、あったかいご飯を食べていましたね。母もランチジャー向けの弁当作りに凝ってしまい、おかずも温かいカレーやシチュー等の汁物系も登場してました。
  • 弁当がない日は、日新ホールでのカレーか、ゴムのようなラーメン。早めに行かないと、売切れになっちゃうんですよね。たまに、鳳華楼に行きましたが、タバコ臭い2階の座敷には近づけず、1階のカウンターでした。なぜか、前店や横店でランチした記憶がありません。パンとかは買ったようなちなみに横店の子は、南高に行ったらしい

━━━投稿者名 : 現役一高生に言いたい!2

  • 伝統の甲府ー高。
  • 卒業してから、それを実感したのは、卒業後何十年も経ち、関東を離れ営業活動をしていた時のこと。
  • 取引先に「山梨県出身です」と言うと「甲府ー高ですか」と聞かれることが何度もあった。
  • いきなり高校を聞かれることにも驚いたが、相手に甲府一高の知り合いがいる訳でもなく、また決して「南高ですか」とか「日川高校ですか」とかは聞かれない。
  • やはり今でも、山梨県と言えば「甲府ー高」というのが全国レベルでは浸透している証であった。
  • 現役一高生よ、一高生であることの誇りを持って、また緒先輩方が培ってきたこの伝統の重みを感じながら、一高の伝統をこれからも守っていってくれ!と切に願う。
  • (高校時代の思い出とは違いますが、「募集の目的」を読んで、送りました。)

━━━投稿者名 : 現役一高生に言いたい!

  • 伝統の甲府ー高。
  • 在学中、それを実感したのは、やはり「応援練習」と「強行遠足」。
  • その中でも思い出すのは、応援練習での出来事。
  • 応援練習の最中、いきなり応援団員に前に出るように言われた。
  • 「えっ、俺? 」「なんで?」「俺さぼってないよ」と思ったが、ともかく前へ。
  • そうしたら、なんと応援団旗を持たされた。「げげっ、これを落としたら殺される」と手に汗握りながら(本当はこれがすべる原因なのだが…)何とか持ちこたえた。
  • これは人生の中で最も緊張した経験の一つ。
  • 今となっては、一高生としての自覚を持つに至った応援練習と共に忘れられない思い出だ。
  • 現役一高生よ、団員不足で応援団の存続すら危ぶまれているとも聞くが、一高の伝統をこれからも守っていってくれ!と切に願う。

━━━投稿者名 : 楽しかった一高時代2

  • 3年間同じクラスだったN君とは、バレ—コートでソフトボールやったり、1年の時一高祭では「走れメロス+蜘蛛の糸」を演じたりしました!3年の秋、私もやっと18歳の誕生日が過ぎ、当時日活ロマンポルノが全盛期で友人数人と武蔵野館にいったのですが、一高の生徒手帳を見せて学割で入場したのは私だけだったのでしょうか?

━━━投稿者名 : 楽しかった一高時代

  • 私は4人兄弟の3番目で入学したときに下の姉が3年生で先輩でした!なんと同じ境遇の友達がクラスに3人もいて、O君とはすぐ仲良くなり、家にもよく遊びに行きました!その時の「かっぱえびせん」おいしかったなー?彼は部活も体育局2つ文化局1つ、私も彼の影響か2つ部活をしていました。1年の強行遠足の前2人で小諸まで自転車で下見に行きましたね!本番は臼田まで一緒だったけど、気力の差で先に小諸についたね。3年の時はお父さんと同じように1番になったね!あまり勉強しなかったので2人とも浪人でも、本当に楽しかったよ!ありがとう!

━━━投稿者名 : 花の56歳

  • 学園祭最終日の夜(後夜祭って言いました?)、校庭で大きな輪になってフォークダンス(オクラホマミキサー)をしました。あこがれの○○先輩が徐々に近づいてくるとドキドキ…。やっとペアになり、先輩が私の肩に手をまわし両手を握り合った時は「しあわせ??」でした。あの頃は私もかわいかった……。

━━━投稿者名 : 海ノ口夜空

  • 一年担任数学のG先生、宿題サボった生徒にはノートで頭をゴツン、但し女子にはためらいがちに優しくストン。先日、女子のみ放課後補習をしていたことをしりビックリ! 先生、俺にも声をかけて欲しかったなあ

━━━投稿者名 : 海ノ口夜空

  • 一年の強行遠足、海ノ口で足が動かず無念のリタイアー、寝転んで一人、野原で夜明けまで星を眺めていた、これぞ人生初めての野宿体験!

━━━投稿者名 : ソックス

  • かなりおおらかな一高でしたが、服装チェックには厳しかったのが、タンクとオバーマンでした。廊下の隅に姿が見える度に、きびすを返すように逃げていました。なぜなら、ゴムのネクタイが苦手で、いつも外していたことと、カラーソックスを履いていたので、目をつけられていたんです。それでも3年間服装は、それで通しましたけど。

━━━投稿者名 : Y.S 

  • 強行遠足の練習で放課後、千代田湖まで往復した道のりは、その後、友人との大好きな散歩道になりました。小さな恋の悩み話は、心地よい緑の風や、あたたかい夕陽をあびての会話によって,すがすがしい気持ちになりました。学校の裏に、あんなに静かな散歩道があってよかったです。

━━━投稿者名 : キティーM

  • 校庭の隅にブロック造りの部室がありました。
  • 「ペンフレンドクラブ」という静か〜な活動をしていましたが、近くにある「軽音部」という部室があり、なんとな〜くこわい思い(笑)をしました。

━━━投稿者名 : キティーM

  • 強行遠足、学校からの出発で応援した後、韮崎まで電車で先回りして、あこがれの○○君の来るのを待ちました。

━━━投稿者名 : 家族からトッシーと呼ばれている男

  • 一高新聞部に入部して5か月後、伝統コラムの「時事入門」の執筆を先輩から命じられました。お題は「人口問題」。
  • この年(1974年)が国連の世界人口年だったためです。人口…人口…どうもピンと来ない。そこで最初に読んだのが、真面目な「子どものつくり方」の本でした。これは後の家庭生活の礎になりました。
  • このコラムは、今読んでもよく書けています(笑)。 

━━━投稿者名 : 匿名希望

  • <当時の一高都市伝説>
  • ・強行遠足で小諸までたどり着くと大学に現役合格できる。
  • ・ 入学時点で革カバンが汚れているのは山梨大学附属中学出身者。甲府ではセレブのあかし。
  • ・ 一高女子の制服を着ていると、さほどではない子も甲府市内では頭が良さそうに思われる。
  • ・ 自宅が遠い子は頭が良い。
  • ・ 革カバンはぺちゃんこほど格好良い。(実用性なし)
  • ・ 應援団は神。応援委員もそこそこ神。新入生はひれ伏す。
  • ・ 女子は体育の授業でプールに入ると「4」以上の成績がつく。

━━━投稿者名 : 白夜のプリンス

  • 3年も後半になるとあんまり授業がなくて、毎朝カブで「S藤」君と北中入口の喫茶店“S”に行くのが日課だった。喫茶Sにはいつも2、3人の同級生がいた。
  • ある日、喫茶Sのお姉さんが「ちょっと2時間ぐらいお店頼むね。」と言って出て行ったので、客が来ないことを祈ったが、運悪く中年のオヤジが入ってきた。
  • すると誰かが学生服の襟のカラー(白いプラスチック)をはずし、襟から第2ボタンのへんまでを外側に折って背広のようにして「いらっしゃぁ〜い」と水を持って行くではないか!
  • なんちゅー度胸が据わった一高生だと感心した。バレバレだったけど。

━━━投稿者名 : 英数亭阿呆

  • 先日タンスの整理をしていて、薄汚れた日本手ぬぐいを発見した。見てビックリ!
  • 当時部活で、愛用していた小道具だった。
  • 渋い図柄に歴代の先輩方の名跡が連なり、今なお古さを感じさせない。いやむしろ斬新ささえ感じさせるこの一本。
  • これを高校生が制作し、そして使っていたとゆうのか
  • 恐るべし落研そして一高。なんと粋で小洒落た学校だったんだろうかぁ!

━━━投稿者名 : そういえば4

  • 物理のH先生。
  • たしか新任で来られた3年1学期の中間試験。
  • 一高だからと最初はガツンとかまそうと気張って難しい問題を出したそうです。
  • 結果は無残、平均点が10?20?点台。
  • 難しすぎる問題を作ったのが悪いのか?出来なかったのが悪いのか?
  • こんな点を生まれて初めてとった優秀な人のショックは相当なもの。
  • でも一高生、乗り越え発奮して頑張ったということでしょう。
  • 一方、いつも少ない点の私は変な自信を持ちました。
  • 「赤点、みんなでとれば怖くない!」と。

━━━投稿者名 : 旧校舎と正門前の並木、よかったね。

  • 2校選抜の時代。一高?南高?どっち?一高と決まり大喜びでした。
  • あの並木を正面に旧校舎を眺めながら通って、正面玄関を入って廻り階段を上がって上履きでなく革靴のままちょっと大人びた感じに憧れていました。
  • 毎日、始業ぎりぎりに自転車で疾走、2年連続の男子クラスの教室は掃除をした記憶はな埃っぽかったけど、3年間通えてよかった。

━━━投稿者名 : そういえば3

  • おまけ
  • 化学のH先生の武勇伝。
  • 2年生の一番最初の授業の時に話していました。
  • 多分覚えている人もいると思います。
  • 何の資格試験だったようだけど、H先生は一切勉強しないで合格すると決めたそうです。
  • マークシートだったので過去の正解の配列パターンをひたすら研究するのが受験勉強。
  • そして見事合格したとの事。
  • 試した人はいないと思うけど、そんな話を真剣拝聴していた純粋な時がありました。

━━━投稿者名 : そういえば2

  • 3年生になる前の春休み。
  • 午後からの部活だけに皆勤賞だったTくん。やっぱり授業日数が足りず
  • 補習授業を受たり、追試を受けたりと頑張ったけどまだ足りず、進級の危機。
  • 途方にくれていた時に化学のO先生が助け舟を出してくれました。
  • 春休み中、毎日花壇のお世話をさせていただいて、無事3年生に進級。
  • おかげ様で一緒に卒業もできました。

━━━投稿者名 : そういえば1

  • 化学のO先生。毎日毎日、一高の花壇のお世話をしていました。
  • 入学式のころの色とりどりのチューリップが満開の中庭は見事でした。
  • 一高の自慢の一つと思います。
  • ある日の午後、コックリコックリといい心地の授業中、外で作業をしていたO先生、
  • 窓からひょっこり覗いて「このクラスの子はよい子がだからは放課後の作業を
  • 手伝ってくれるかな?」とニッコリ。「おまけ点のご褒美もあるかも?」と。
  • 教壇の先生もニッコリ。1年生の時ののどかな思い出でした。

━━━投稿者名 : 日に新た

  •  3年の早朝数学授業、生徒に黒板で問題を解かせると、F先生は透かさず、3階の教室の窓から顔を出して物色。校門から登校して来る特定の女子を見つけると「〇〇ちゃん!」と叫び、手を振り、なんと腰までも振っていた。この光景を見ていた〇〇ちゃんファンのM君は、激怒し拳を握り「あのポマード野郎」と小さな声を出していたのを私は忘れません。
  •  そして、最近の同窓会でF先生が女子の夏服のブラウスの胸ポケットに、生徒手帳をねじ込みながら返すのが得意技というのを聞きました。私も、私もと被害者が続出。M君がその場にいたら、きっと言ったでしょう「あのポマード野郎」と。

━━━投稿者名 : 質実剛健 by リケジョ

  •  3年当時リケジョクラスだった私は、強行遠足の応援体制を男子抜きの女子会で決めました。クラスの男子全員に応援担当者を付けるというもの。まず、プロ野球ドラフト会議のように一巡目は、クラス内で応援したい男子を指名。さすがに一番人気の男子には、数名が殺到し、くじ引きで決定。私が狙った男子は、幸運にも他に指名がなかった為、すんなりゲット。確か、二巡目以降は、特に指名する感じでなく、残った男子をザックリと分けたような記憶です。どんな応援にするのかは各自に任せた為、担当の男子に対し、特に何もしなかった女子もいたようです。
  •  私は、一巡目にゲットした男子に、B5版裏表の紙に書いた「小諸到達」の1,000文字を入れたお守りを贈りました。結構、念が入りましたね。最近の強行遠足では、本命のお守には、チェック柄のお守り袋を贈るそうですが、当時、彼に贈ったお守袋は、偶然チェック柄でした。もちろん、私が渡したお守りが効いて、彼は小諸にV3。お礼に臼田のリンゴをいただきました。母に言われて、リンゴのお礼状も書きました。後輩の話では、もらったリンゴでアップルパイを焼いて、一緒に食べたとかそんなオシャレなことは、当時、全く思いつきもしませんでした。知っていたら、また一つ素敵な想い出ができたのに、メッチャ残念。

━━━投稿者名 : 一高の南沙織

  •  朝早起きして、胸がドキドキワクワク!急いで一高に向かいました。(アッ!)誰もいない教室に、スッと彼が入って来ました。目を合わせたり、うつむいたり...。
  •  今日は二人だけで教室で写真を撮るんです?。嬉しいやら恥ずかしいやら...。
  •  彼はとってもいい写真を撮ってくれました。今でもアルバムで笑っています。
  •  私の大切な「17才」の思い出(^_-)-☆

━━━投稿者名 : 坊主の外車 by オレンジビートル

  •  2年時の「研修旅行」(合歓の郷吉野京都)の京都泊の昭和50年5月23日、男子クラスであった私達は、全員ひとつの大部屋に入れられました。
  •  就寝時間を過ぎても騒ぐ部屋に、見回りに来たK先生。「お前ら、いい加減にして寝ろ!」と指導するないなや、私達はK先生を拉致し、布団の中へ押し込みました。すると、すぐに学年主任のA先生が見回りに来て、「早く寝なさい!」と指導され、布団の中で、もがいていたK先生は、急に静かに
  •  A先生が去った後、布団の中から脱出したK先生は「お前らA先生に見つかったらハラハラしていたぞ」と一言残し、慌てて部屋を去って行きました。ちなみに、担任の先生は何故か研修旅行に不参加でした。

━━━投稿者名 : 一高のお蝶婦人

  •  私の高校時代の一番の思い出は、テニス部でのひろみとの対決でも、宗像コーチのしごきでもありません。あれは、三年時の昭和51年10月14日の強行遠足。男子は、途中からの雨にもかかわらず、続投が決定。女子は、多少不安の中、バスで高根東小学校のグランドへ向いました。そして、到着しましたが、降り止まぬ雨誰一人バスを降りずに、引き返すことが告げられました。思わず涙したのは、私だけではありませんでしたね。すすり泣く声が、バスの中に響いていました。
  •  あの空しさを晴らしてくれたのは、臼田のリンゴをそっと渡してくれた、3年間小諸に行った藤堂君でした。

━━━投稿者名 : 英数亭阿呆

  •  2年の冬だったか、いつもどおり3校時と4校時の休み時間に、日新ホールで天丼を小早く食って教室に戻る途中で、3年の先輩に部室へ呼び込まれました。 当時、日新ホールのすぐ裏にあった畳の部室には何故だかコタツがあって、先輩はコタツと一体化してハイライトを吸いながら「オレ、推薦ずでぇだめだっとぉ」と話しを始めました。その後、定期的にそんなグチを聞かされながら、がと明るくもねぇ将来についての話しをするのが何ともいえずにもの悲しくそして面白かった。S先輩元気かなぁ?
  •  ちなみに、その時オレはたばこを吸わなんだ。と思う。

━━━投稿者名 : 勘違い女子

  •  受験勉強をほとんどしなかった私は、予想通り大学は全て不合格。ある日、担任に呼び出されて「この女子大学なら今からでも入れるぞ」、エッ、さすが一高!大学落ちても名前書けば、受け入れてくれる大学があるの?と驚きつつも、「何学部ですか」「家政学部だ」と先生。当時はあまり耳にしたことがない女子大で、しかも落ちた人間でも入れる、ましてや全く興味のない学部…「やめときます」。その場で断ったものの、今ではそこそこ有名な女子大に。先生の言う通りにしていたら、今頃、家政のエキスパートになっていたかもしれない(@_@;) それにしても一高、恐るべし。

━━━投稿者名 : They is likes she.

  •  何年の時か忘れましたが、ある日の休み時間、ラグビー部の顧問が、美術部とかの部室の屋根にハシゴで登り、乗ってしまったボールを取っていたので、ハシゴを外して持って逃げた。
  •  その時は屋根の上からかなりの勢いで怒っていたが、結局、おとがめはなかった。
  •  それにしても、どうやって降りたのだろう?

━━━投稿者名 : やればできる子

  •  一高の近くの宝華楼の2階は、いつも3年生男子のたまり場でした。旧館の屋上と同じで、先生達は上がれなかった。先生はいつも下のカウンターで食べてたね!  噂でしかないが、当時、先生が上がろうとすると、店主が包丁をちらつかせ阻止をしたとかしないとか あくまで噂です(^_^;)  マスターありがとね!!

━━━投稿者名 : やればできる子

  •  部活(団活とは言わない)の帰りはいつも前店に寄っていた。同じ部のO君と前店店主のある日の会話「おじさん、おでんちょうだい」、「はい、いらしゃい、Oさん何にしましょ?」、O君「おでん」、店主「はい、何します?」、O君「だから、おでんと、じゃあ、ちくわ」、店主「おで?ン」
  •  なんとO君はその日まで、おでんを総称ではなく、さつま揚げ(甲府では、はんぺんと言っていた)のことを‘おでん’と言うのだと思っていたのでした。(@_@;)

━━━投稿者名 : 数学1番になった事ある子

  •   高1の夏休み、バイトで同じ一高1年のUちゃんと知り合い、付き合う事になりました。当時まだ15歳、バイクの免許も車の免許もなく、電車で富士急ハイランドに2人で行きました。どんな話をしたかは覚えていません。でも大嫌いなジェットコースターに乗ったのは鮮明に覚えています。後にも先にも人生でそれ1度きりなのでそんな想い出話を40年ぶりの同窓会で会ったUちゃんにしたところ「富士急ハイランドに行った記憶はまったくない」とそんなことあるか?(?o?;;

━━━投稿者名 : 数学1番になった事ある子

  •   高3の強行遠足、2年時に小諸まで行ったので全くやる気なかったが、付き合っていたM子が韮崎に応援に来ていたので「しかたねぇ〜りんご持ってってやるか」と奮起し、小諸のりんごをやっとのおもいで甲府駅で待っていたM子に渡しました。後に食べて種を小さなビンに大事に保存したようです。そんな想い出話を40年ぶりの同窓会で会ったM子にしたところ「そうだった?私、りんご嫌いだから多分腐らせたと思う」だってマジか(?o?;;

━━━投稿者名 : 嗚呼!日新ホール...

  •  当時は代謝が良くて食べても食べても太らなかった頃。4時限目が終わって昼休みになるまで腹が持たない。3時限目が終わるやいなやあちこちのクラスから男子生徒達が十数人(もっといたか?)が日新ホールに駆け込み、10分間しかない休憩時間中にカレーを掻き込み教室へ戻っていく。
  •  もちろん、その後の昼休みは日新ホールでラーメン。それが日課でした。

━━━投稿者名 : やればできる子

  •  1年の時の担任のK先生、2年時の体育の授業の時、そっと僕の背後に来て僕の肩を揉みながら「興味半分で吸うのはいいけど、あれはちょっと吸いすぎだぞ!ちゃんと部室(団室とも言う)の床の吸殻掃除しとけ!」と またあるときは、夜、家でテレビを見ていたら、母から電話(母はお店をやっていて教育委員会の人や学校の先生達はよく来ていました)でK先生に変わり「お前、今から出て来いよ!」って いいのかよ~ 「いやですよ~ボクシングいいところなんだから~」って断りましたけどね。
  •  卒業してから1度、母のお店で偶然お会いし一緒に飲み、友人M君の店に行ったところ、他に居合わせたお客さんから「日川高校のK先生ですよね、帰り家までお送りいたします」と(K先生は日川高校にいたこともあるので)、日川高校でも超有名な僕の大好きなスーパー先生Kのお話でした。

━━━投稿者名 : 強行遠足頑張った

  •  昭和51年度強行遠足実施要項という冊子が見つかりました。30ページほどの物で、実施前に関係者全員に配られたものと思われます。道案内など面白そうな部分を抜粋してお送りします。
  •  ところで今振り返ると、途中の行程、臼田までは鮮明に覚えているのですが、岩村田あたりから先、朦朧としていたためか、どのように歩いたかまったく覚えていません。

━━━ 投稿者名 : エースをねらえ!

  •  私の高校時代は、テスト前以外は土日を含めて毎日、練習をしていました。土日はOBが来て球出しをしてくださいました。当時は、練習中、水を飲んではいけなくて、フェンスに濡れタオルを吊しておいて、そこから水分を取っていました。よく熱中症にならなかったものです。
  •  きつい練習後、前店でのおでんタイムが至極の楽しみでした。いつもは、こんにゃく、さつまあげ、ちくわ、おこずかいのたくさんある時は、玉子を食べました。当時、いくらだったでしょうか。10円、20円くらいかなあ。どなたか、覚えていませんか?

━━━ 投稿者名 : エースをねらえ!

  •  インターハイ決めの対増穂商戦、相手顧問の先生が、「お前ら、こんなお嬢さんに負けるのかあ。頭で負けて、テニスでも負けてどうする、こぴっとしろー!」と、コートサイドで怒鳴っていました。一高生には負けたくないという雰囲気は、どの競技にもあったんでしょうね。結局、女子は負けてしまい、男子はみごとインターハイに出場しました。
  •  今、錦織圭が世界で大活躍していますが、全米オープンの前身の全米選手権に1916年、日本人として初めて出場したのは、一高出身の三神八四郎さんだそうです。一高生って、やっぱりスペシャルですね。

━━━ 投稿者名 : もっと勉強すりゃよかった!

  •  私の大好きな担任のA先生、ある朝、教壇に立つと、
  •  「あれ、先生、酒臭くねえ?」
  •  「そんな事、あるわけない。お前らのの気のせいだ。」なんてことがあったとかなかったとか。
  •  みんなから慕われていたA先生でした。

━━━投稿者名 : もっと勉強すりゃよかった!

  •  現代国語のテストでの出来事。答えがわかっているのに、漢字がわからない。
  •  (答えを漢字で書けという、一問二点の問題)
  •  そこで、私は余白に書きました。
  •  「漢字を忘れました。お願いだから、一点ください。」
  •  すると、赤ペンで返事が返ってきました。
  •  「一点もあげられない。」
  •  きちんと返事をくれる律儀な先生なのでした。

━━━投稿者名 : やればできる子

  •  入学した時は良かったのに、部活にかまけているうちに、見る見る成績が下がってしまったある日、担任のk先生は、僕を呼び出して言いました。
  •  「エロ本を読んでもいいから、毎日机に向かう習慣をつけなさい。」
  •  え?エロ本でいいの?
  •  担任のアドバイスになるほどと、共感してしまいました。

━━━投稿者名 : 赤穂浪士

  •  高3の学園祭、仮装行列の参加人数のmaxは、20人でした。私達のクラスは、赤穂浪士をすることになりました。三年生ですから、気合が入っています。
  •  「赤穂浪士、20人じゃ足りなくねえ?」
  •  「20人なんて、誰が決めただあ、いいや、いっぱい出しちめえ。」
  •  本番では、吉良上野介がかたき討ちにあい、口から血を流すシーンまであり、観客には大うけ。
  •  しかし、規定違反ということで、優勝は、ベルサイユの薔薇に持っていかれ、準優勝でした。
  •  今でも私達は、人数制限さえなければ、我がクラスが優勝したと信じています。

━━━投稿者名 : 赤穂浪士

  •  学園祭の各クラスの歌まねの発表の舞台は、なんと、部室の屋上でした。どうして あんなところでしたんでしょう。柵もないんですよ。今では、考えられません。