毎日新聞2018年4月4日より 首都圏版に掲載

ぐるっと首都圏・母校をたずねる
山梨県立甲府一高/1 自由な校風、品位学ぶ 古今亭寿輔さん /東京

 ◆落語家・古今亭寿輔さん=1962年度卒(昭和37年卒)
 「母校をたずねる」は、甲府一高(甲府市)編を連載します。各界に優れた人材を輩出し続けている
山梨の名門校です。初回は、派手な着物と口ひげがトレードマークの落語家、古今亭寿輔さん
(73)=1962年度卒=です。一高時代は勉強が大の苦手だったそうですが、自由な校風の
中で「落語家に必要な『品位』を学んだ」と振り返ります。【田中理知】

 小学校高学年の時にラジオで落語を聴き、その面白さにひかれて落語家になる決意を固めました。
人見知りな性格だったので友だちや親には語らず、胸に秘めていたのです。すぐにでも落語家になり
たかったけれど、母親が勧める一高への進学を決めました。
 入学すると、みんな真面目でした。私はとにかく勉強嫌いで「突然変異」みたいな生徒だったと
思います。宿題などやらなければいけないことはこなして、授業中は目立たないようにそーっとし
ていました。成績は「下の下」でしたが、卒業後に落語家になるためのエネルギーを蓄えていたのでしょう。
 一高には5、6人で細々と活動している落語研究会もありました。でも「やるならプロで」と
決めていたので入りませんでした。週に1度、ラジオで落語を聞き、高1の夏休みに約3時間半
かけて鈍行列車で新宿に行って初めて生で寄席を見ました。その時の様子は今でも脳裏に焼き付いて
います。落語の世界に入りたいという思いが一層募りました。
 当時は50人のクラスが1学年に10クラスあり、女子生徒は全体の1割強くらいでした。女性
にはあまり興味がなかったのですが、好きな女子がいるという友人から「手紙を渡してほしい」
と頼まれたこともありました。
 ぼんやりと過ごした高校時代ですが、自由で、先生と生徒が信頼し合っている校風は忘れられ
ません。2年の時のことです。期末試験が終わって友人と甲府駅近くの喫茶店で遊んでいたところ、
テーブルに残っていた、たばこの吸い殻を見た少年補導員から喫煙を疑われ、学生手帳を取り上げ
られました。翌日、生徒指導の先生のところへ事情を説明しに行きました。先生は「分かった」と
すぐに手帳を返してくれました。「生徒を信用してくれる学校なんだ」と感動しつつ「一高生徒と
しての品格を踏み外すことはできない」とも感じました。
 卒業後は大学に行かず、23歳で落語家の世界に飛び込みました。故・古今亭今輔師匠から
「落語家は陽気で、品位がないといけない」と言葉をかけてもらいました。高校時代の経験が
あったので、合点がいきました。今でも座右の銘です。
 客の目を引こうと、お坊さんのけさや歌舞伎を参考に、衣装を派手に変えたり、社会風刺や
批判を取り入れたりして、自分にしかできない落語をやってきました。今も芸をアレンジして
楽しんでもらえるよう工夫しています。私は着物を着て座布団に座ると人が変わるタイプです。
人見知りだった自分と接していた同級生や先生は今の私を見てびっくりしているかもしれない。
それでも「品位」は忘れないでいたいものです。

自主・自立・自律を重んじる クラーク博士の影響受け
 甲府一高の創立は明治時代にまでさかのぼる。徳川幕府が甲府に設けた学問所「徽典館
(きてんかん)」の流れをくみ、県内初の旧制中学として1880年に創立された。札幌農学校
(現北海道大)で教鞭(きょうべん)を執ったクラーク博士の影響を受け、自主・自立・
自律を大切にする校風が特徴だ。
 卒業生の顔ぶれも豪華。元首相の石橋湛山(1902年卒)
▽東京タワーを設計した内藤多仲(04年卒)▽日本開発銀行初代総裁の小林中(16年卒)
▽ブックオフコーポレーション創業者の坂本孝(59年卒)▽SMBC日興証券社長の清水喜彦(74年卒)
▽漫画「セーラームーン」の作者、武内直子(85年卒)=いずれも敬称略=ら各界を代表する多様な人材が巣立っている。
 クラーク博士の教育方針は、博士の教え子で、7代目の大島正健校長が伝えた。校長室に飾られている校是
「Boys be Ambitious!(少年よ、大志を抱け)」は1947年、当時蔵相で大島校長の
教え子だった石橋がしたためた。
 堀井昭校長は「自主性を重んじる校風が受け継がれている。自分たちで問題点を見つけて解決する力を身
に着け、卒業していく。積極的に外に出て社会問題に取り組む傾向が強い」と話した。【井川諒太郎】=次回は11日に掲載

卒業生「私の思い出」募集
 山梨県立甲府一高卒業生のみなさんの「私の思い出」を募集します。300字程度で、学校生活や恩師、
友人との思い出、またその後の人生に与えた影響などをお書きください。卒業年度、氏名、年齢、職業、
住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100-8051、毎日新聞地方部首都圏版
「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jpへ。いただいた「思い出」は、紙面や
毎日新聞ニュースサイトで紹介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。

 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

 ■人物略歴
ここんてい・じゅすけ  古今亭寿輔
 1944年、中国・青島で生まれる。1年ほどで帰国し、高校卒業まで甲府市で過ごす。
会社員を経て、23歳で故・三遊亭円右に弟子入りし、三遊亭右詩夫として初めて高座に上がる。
83年に真打ちに昇進し、現在は東京都内在住で浅草、池袋、新宿、上野で寄席に出演している。
落語芸術協会 https://www.geikyo.com/profile/profile_detail.php?id=67



ぐるっと首都圏・母校をたずねる
山梨県立甲府一高/2 疑問と向き合った青春 島田敏男さん (S52年卒) /東京

毎日新聞2018年4月11日 地方版

 ◆NHK解説副委員長・島田敏男さん=1976年度卒

 NHK「日曜討論」の司会でおなじみの島田敏男さん(59)=1976年度卒=は山梨県立
甲府一高時代、新聞部に所属しました。「もやもやとした社会への疑問で頭がいっぱいだった」
と振り返ります。青春時代に社会と向き合い悩んだことが、ジャーナリストの鋭い視点につな
がりました。【平林由梨】

 小学生のころ、実は漫画家になりたかったのです。「鉄人28号」の作者、横山光輝さんに
憧れていました。横山さんは作中で鋭く国家、権力、集団などを描き、子どもながらに深く印象
に残りました。そのころからでしょうか。「どうしたらみんなが納得して幸せに生きていけるのか」
と社会集団のあり方に漠然とした問いを抱くようになったのです。中学では生徒会長になりました。
でも、うまくいきません。いさかいも起こり、自分のやっていることは偽善なのかと悩んだこともありました。

 一高でも生徒会活動を続けようかと悩みましたが、新聞部の先輩に誘われたのです。「この
(高校という)集団を冷ややかに観察するにはいいかもしれない」と軽い調子で入部しました。
部室は校舎の西の端にあるプレハブの一室です。先輩たちから原稿の書き方の特訓を受けました。

 「ここ、意味が分からない。バツ!」と(ペンで)真っ赤にされて、何十回も書き直しを命じ
られました。特に一生懸命見てくれた先輩は昨年度まで母校の教頭を務め、退職された古河通也さんです。

 夏は西日がきつくて部室にはいられません。日陰のある中庭に出て、園芸部がきれいに育てた花畑
の中で原稿を書きました。粗削りのテーブルとベンチも借りました。

 部員は20人ほどで、年に4回、学校新聞を発行していました。ブランケット判の見開き4ページです。
原稿ができると紙面の割り付けをして、当時甲府に1軒だけあった新聞活字がある印刷所に持ち込みます。
そこには軍隊で生き延びた猛者がいて、「学生、原稿遅いぞ!」って怒られながら、活字拾いをやらせて
もらったのは貴重な経験になりました。

 「グラウンド拡張が実現しそうだ」というささやかなスクープ記事は校内でもちょっとした話題になり
ました。部長になり、生徒会や学園祭についての小難しい、出口のない論評も書きました。でも、読者が
求めていることは実は地に足がついた、日々の生活に結びつく話題なのです。

 とはいえ、みんなが納得するような(社会的)秩序や仕組み、文化、そういったものは生まれ得るのか
--。こうした問いに自分なりの答えを見つけようとあがいた3年間でした。当時のそんなあがきは今も
続いています。

 携帯電話についているキティちゃんのストラップは同窓会で作りました。キティちゃんが抱えているのは
「日新鐘」という甲府一高の中庭に掲げられている鐘です。「歴史と伝統に謙虚に、そこから日々新しい
ものを生み出せ」という精神の象徴です。分からないものを分かろうと、もがくことだと解釈しています。
それは苦しいことだけれど、ジャーナリストとして逃げるなよ、と言われているような気がするのです。

「一高新聞」の縮刷版が完成 1948年創刊号から242号まで一冊に

 新聞部が発行している「甲府一高新聞」の縮刷版がこのほど完成した。1948年5月の創刊号から
2015年3月の242号までが一冊にまとまっている。

 発行は年数回で、部数は約600部。学校、生徒自治会、生徒一人一人に向け、歯に衣(きぬ)着せぬ
意見を載せてきた。全校生徒が約100キロの道のりを闊歩(かっぽ)する「強行遠足」の実施要領が大
きく変更された62年には「強歩の意義を殺すな」と学校に抗議。97年3月には、生徒の傘や、購買部
のパンが無くなる「事件」を取り上げ「自分の行動に誇りや恥の意識を持て」と生徒に呼び掛けた。

 しかし、08年3月の200号を最後に部員不足のため2年間、休刊となる。現在も部員は3年生3人と
人手は不足気味だが、学校を取り巻く問題に鋭く切り込んできた「部説」は「一高新聞の伝統」として健在だ。

 部長の岩下貴史さん(17)ら3人はカメラを抱え、学校行事や生徒総会などを取材している。岩下部長は
「意見を書くため取材をした後にも、しっかり調べるようになった。この先も一高の誇りとして継承して
いきたい」と話す。

 縮刷版は同校で販売している。1冊3000円。【松本光樹】=次回は4月18日に掲載

 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

 ■人物略歴 しまだ・としお

 1959年、甲府市生まれ。中央大学法学部卒。NHK解説副委員長。専門は政治、外交、安全保障など。
1981年にNHKに入局。福島、青森両放送局を経て政治部記者に。2006年から「日曜討論」
の司会を務める。07年から「やまなし大使」。

2015年 甲府一高東京同窓会 一紅会主催第18回 春の講演会 講師 
 http://1kokai.kf1-tk.jp/kouenkai_katudo.html



 
ぐるっと首都圏・母校をたずねる   毎日新聞2018年4月18日 地方版
山梨県立甲府一高/3 「強行遠足」今の自信に 雨宮弥太郎さん(S54年卒) /東京

◆硯作家・雨宮弥太郎さん=1978年度卒

 将棋の羽生善治氏と囲碁の井山裕太氏に贈られた、国民栄誉賞記念品の硯(すずり)を制作した
のが雨宮弥太郎さん(57)=1978年度卒=です。山梨県立甲府一高時代は、美術や芸術の世界
に没頭していました。雨宮さんは印象に残る一高の思い出として「強行遠足」を挙げ、「今の自分の
自信につながっている」と振り返ります。【加古ななみ】
 私が通っていた校舎は新校舎になる前で、歴史を感じました。(校是の)「Boys be Ambitious」
が掲げられていたことを思い出します。父も母も一高(当時は甲府中学)出身だったので、入学が
決まって誇らしい気持ちになりました。
 高校時代はあまりしゃべらない静かな生徒でした。学校が終わると、近くにあった美術研究所に行き、
ひたすらデッサンする毎日でした。唯一自慢できることと言えば高校2年の時に一高の伝統行事
である強行遠足で1位になったことです。ひたすら走って、最後の最後には5センチの段差を上がる
ことすら苦しい。山梨県と長野県との県境では、父の知り合いが真っ暗な道を併走してくれたり、
沿道で家族たちが応援してくれたりして本当に温かい気持ちになりました。
 失敗もありました。男子は女子からお守りをもらい、帰ってきた時に(長野県佐久市特産の)
「臼田のリンゴ」をお返しするというのが約束でした。しかし、当時それを知らず、卒業して数十年
たって同級生の女子と再会した際に「雨宮くんにお守り渡したのに、リンゴをくれなかった」と言われました。
 同級生とは今でもたわいもない話で盛り上がりますが、「高校時代は、あんまりしゃべらなかった
よね」と言われることが多々あります。当時は女子とは話すことすらできず、もう少しコミュニケーション
を取っておけばよかったと後悔しています。
 印象に残る先生は3年生の担任です。「ザ・熱血先生」のような人でした。熱意だけでなく、生徒の
進路希望に寄り添ってくれました。国公立や有名私立大を受験する生徒だけでなく、芸大を受験
する私の気持ちを考えてくれていました。
 芸大に入学するには共通一次試験(当時)と実技試験が必要でした。共通一次が終わった後、
先生は「学校は来なくていいから実技の練習をしなさい」と言ってくれたのです。小心者なので
登校しましたが、その熱意が身に染みました。その後2浪して東京芸術大学美術学部彫刻科
に進学し、大学院でも学びました。
 卒業後、一高には授業の講師に招かれました。「まさか自分が」と思いましたが、一つでも
思い出に残る授業をしようと考え、生徒たちには、日本の工芸品をどのように海外に発信し
ていくかと問題提起しました。
 工芸品には、今までやってきたことや自分の内面が宿ると思っています。強行遠足で学んだ
ことも作品につながっています。ひたすら走り、達成感を得たことを体が覚えていて「あれだけ
頑張ったことがあるのだから大丈夫」という自信につながっています。一高でしかできない貴重
な人生の経験になりました。

90年以上続く伝統行事
 「甲府一高と言えば」と卒業生に問い掛けると、必ず挙がるのが伝統行事「強行遠足」だ。
 全校生徒が参加し、男子103・5キロ、女子は41・6キロの道のりを夜を徹して歩く。歩き
きった時の達成感が、歴代の一高生を強くたくましく育んできた。
 強行遠足は10代目の江口俊博校長が「歩くに勝る身体の訓練はない」と始め、1924年の
大正時代から90年以上続いてきた。数回のコース変更を経て、現在は甲府一高から長野県
・小諸市(女子は小海町)を目指す。
 2002年に女子生徒がひかれて亡くなる事故が起き、距離を縮小したが、13年から再び
以前のコースに戻った。時間を競うのではなく、それぞれの生徒が自らに合った歩行計画や
目的地を練る。92年からは同様の伝統がある北海道北見北斗高校とも交流、互いの
強行遠足に招待し合っている。
 つらい道中、沿道の声援が生徒たちを支える。また、中継地点ではシジミ汁やリンゴが
振る舞われ、何より苦しみを共にする仲間がいるからこそ頑張れる。
 同高の堀井昭校長は「ゴールにたどり着けば達成感とともに自分への大きな自信となる。
世代を超えた共通の話題として同窓生の絆を強くしている」と話す。【松本光樹】=次回は4月25日に掲載

 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

卒業生「私の思い出」募集
 山梨県立甲府一高卒業生のみなさんの「私の思い出」を募集します。300字程度で、
学校生活や恩師、友人との思い出、またその後の人生に与えた影響などをお書きください。
卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、
〒100-8051、毎日新聞地方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合は
shuto@mainichi.co.jpへ。いただいた「思い出」は、紙面や毎日新聞ニュースサイトで
紹介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。

 ■人物略歴
あめみや・やたろう
 1961年、山梨県生まれ。東京芸術大学大学院(彫刻、美術教育科)修了。江戸時代から
続く雨端硯(あめはたすずり)本舗(山梨県富士川町)の13代目。山梨県で採掘した雨畑石
で「雨畑硯」を制作している。手掛けた作品は、伝統工芸の公募展で数々の賞を受賞。
2013年には米国・フロリダ州のモリカミ博物館にも出品した。
 
 2017年東京同窓会日新鍾の表紙は雨宮弥太郎氏のデザインです。http://www.kf1-tk.jp/nissinsyo_all/2017(H29)nissinnsyo.pdf

以下は国民栄誉賞の記念品として雨宮弥太郎氏の雨畑硯が贈呈されたことを報ずる、2月15日 山梨日日新聞











ぐるっと首都圏・母校をたずねる  日新聞2018年4月25日 地方版
山梨県立甲府一高/4 考古学に夢膨らませ 中村誠一さん(S51年卒) /東京
https://mainichi.jp/articles/20180418/ddl/k13/100/008000c
◆マヤ文明研究家・中村誠一さん=1975年度卒

 金沢大教授の中村誠一さん(60)=1975年度卒=は中米でマヤ文明を研究し続けてきました。
考古学者になることを決意したのは山梨県立甲府一高時代でした。考古学の文献を読み込み、
歴史の解釈を巡って世界史の先生と衝突したこともあったそうです。恩師と議論し、自らの考えをまとめ、
夢を膨らませたと言います。【滝川大貴】

 子どもの頃から歴史好きの少年で、考古学を将来の仕事にしたいと考えたのは高校2年生の時です。
当時、NHKで世界の5大文明の遺跡を紹介する番組が放映され、テレビにくぎ付けになりました。
特にひかれたのがマヤ文明です。遺跡の美しさに感動したことに加え、文字資料が乏しくて謎解きの
要素が多く、のめり込みました。
 部活には入らず、放課後は図書館で歴史の本を読みあさり、自宅でも世界史や日本史の参考書
を読みふけっていました。「歴史だけは誰にも負けない」と決めていました。成績は普通でしたが、
歴史だけはほとんどの試験で学年トップでした。好きだったので幾らでも頑張れました。
 ただ、授業はあまり好きではありませんでした。暗記中心の学習が疑問だったのです。年号や
歴史上の人物を覚えるだけではなく、解明されていない謎を考察するような学問がしたかった。
マヤ文明への関心は、教育のあり方に対する反動だったのかもしれません。
 先生と衝突したこともありました。高校2年の世界史の試験で、珍しく、ある事件の解釈を問う
設問がありました。うれしくて、さまざまな学説を踏まえて解答を書きました。
 しかし満点はもらえず、少しだけ減点された答案が返ってきました。納得がいかず「間違っている」
と詰め寄りました。先生は、当時定説とされていた学説を基に反論されました。私も譲らず、授業中
に30分ぐらい議論しました。周りの同級生から不思議そうに見られたのを覚えています。
 結局、減点の判断は覆りませんでした。その時は納得いきませんでしたが、今思うと熱心な先生
だったと思います。自分でも学説を調べ、真っ正面から議論をしてくれました。生意気な生徒にも
思えたのでしょう。でも頭ごなしに否定はしなかった。同じような熱心な先生が一高には多かったように思います。
 金沢大を卒業後は、人生のほとんどを中米の遺跡研究に費やし、現地の研究所にも入りました。
当時は日本人の研究者が珍しく、唱えた説を否定されることもありました。諦めずに研究を続け、
2000年にホンジュラスの世界複合遺産「コパン遺跡」で王が眠っているとみられる墓を発見しました。
夢を描いて考えを持ち、恩師と一緒に議論する。そんな一高時代があったからこそ、成し遂げられたのだと思います。
生徒の問題解決型発表会 SGHの活動継続へ探究科発足
 「私たち、高校生から広げていかなくてはなりません」
 3月下旬、甲府一高の体育館に全校生徒や入学予定者、保護者ら約700人が集まった。
「山梨ブランドサミット」という生徒による課題解決型の発表会だ。2年生のグループは、鹿による
食害対策として鹿肉の普及を訴えた。「消費者の需要を高めていく必要がある」。スライドを巧み
に操りながら、演劇も交え、滑らかな英語で15分間の発表を終えた。
 発表会は一高がSGH(スーパー・グローバル・ハイスクール)に指定された2014年度に始まった。
SGHは、国際人を重点的に育成する高校を文部科学省が指定する制度で、山梨県内で唯一初年度に選ばれた。
 総合的な学習の時間を使い、県内の課題や現代社会が抱える問題を調べる。時には企業や
自治体への実地調査もしている。
 SGHの指定は5年間で、今年度で終わる。その活動を継続するため、3年前には既存の「英語科」
から発展させた「探究科」が発足した。探究科3年の常盤夏未さん(17)は「肌で社会の現状を知る
ことができる貴重な経験。現場でいろいろなことを感じることで、自分自身を『探究』できていると感
じます」と話す。【松本光樹】=次回は5月9日に掲載

卒業生「私の思い出」募集
 山梨県立甲府一高卒業生のみなさんの「私の思い出」を募集します。300字程度で、学校生活や
恩師、友人との思い出、またその後の人生に与えた影響などをお書きください。卒業年度、
氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100-8051、
毎日新聞地方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jpへ。
いただいた「思い出」は、紙面や毎日新聞ニュースサイトで紹介することがあります。新聞掲載
の場合は記念品を差し上げます。

 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

 ■人物略歴
なかむら・せいいち
 1958年、甲府市生まれ。金沢大法文学部史学科を卒業後、ホンジュラスの国立人類学
歴史学研究所に勤務。同国のコパン遺跡で調査を重ね、国際的な注目を集めた。2012年
から金沢大国際文化資源学研究センター教授(マヤ考古学)。現在もホンジュラス、グアテマラ
に通い、遺跡の修復や保護の指導を続けている。















ぐるっと首都圏・母校をたずねる
 毎日新聞2018年5月9日 地方版
山梨県立甲府一高/5 作る楽しさを学んだ 竹内宏彰さん(S54年卒) /東京

 ◆アニメプロデューサー・竹内宏彰さん=1978年度卒
 竹内宏彰さん(58)=1978年度卒=は、映画「マトリックス」のアニメ版「アニマトリックス」
などを手掛けた気鋭のアニメプロデューサーです。山梨県立甲府一高時代、学園祭での
経験を通じてコンテンツ作りの魅力と楽しさを知りました。「みんなを説得し、一つの作品を
作り上げた経験が今の仕事に生きている」と語ります。【滝川大貴】

inRead invented by Teads
 中学時代は映画に熱中しました。一高に進学してから、ただ見るだけではなく、自分でも
何かを作りたいと模索していました。ジャンルを問わず、創作に関心があり、学園祭「一高祭」
が絶好の(発表の)機会だったのです。生徒はクラス単位のイベントと、ステージで全校生徒に
披露する2部門に参加でき、3年間、ステージの催し物の係を務めました。
 特に印象に残っているのは、1年生の時に企画した歌謡ショーです。クラスで有志を募り、
当時人気だった歌謡グループ「内山田洋とクール・ファイブ」をまねたイベントを発案しました。
勉強熱心で知られるクラスメートが、ものまねを披露する--という筋書きを考えました。
 まず、自分の頭の中にある想像図を、参加者に共有してもらうことに努めました。絵を
描いたり、図に示したりしながらプレゼンテーションしたところ、少しずつ「面白そう」という
声が出始めました。
 当時、一高には1500人くらいの生徒がいましたが、出演の了解を得るのは大変でした。
「勉強熱心で有名だからこそ面白いんだ」と説得し、勉強の合間に少しずつ練習しました。
衣装は制服を裏返して使うなどして節約しました。
 本番では、司会者のようなことをしたと思います。「1年生にしては本格的で面白かった」
と好評で、賞をもらいました。同級生から「やってよかった」と言われたのが印象に残って
います。3年時の担任は「進学校の一高で、イベントごとに全力を出せるクラスは珍しい。
お祭り担当の竹内がいるお陰だ」と言ってくれました。
 卒業後、84年にアニメーションなどのコンテンツ制作会社を起こしました。当時としては
珍しく、CG映像を作れるコンピューターを数百万円かけて購入しました。CGアニメの先駆け
になるような作品が作りたかったのです。
 CGを多用したアニメ「鉄コン筋クリート」は集大成でした。「予算が膨大になりすぎる」
「技術者がいない」などと反対意見も出ましたが、一つずつ解決し、文化庁メディア芸術祭
のデジタルアート部門で優秀賞を受賞しました。
 2003年にはハリウッドと協力し「アニマトリックス」を製作し、全体で200人を巻き込んで
仕事をしました。挑戦の連続でしたが、一高時代に培った交渉力や企画を推し進める力が
原動力になっていたと感じます。
学校を美術館に 校舎廊下などに生徒の作品160点
 甲府一高の5階建て校舎を歩くと、そこかしこで美術品を目にする。実に約160点もある。
8年前に赴任した美術教師、石田泰道さん(49)が「学校を美術館に」と呼び掛けて始まり、
一高の新たな文化として定着しつつある。
 「甲府第一美術館」と名付けられたプロジェクトで、作品は廊下などに展示し、一般にも公開
している。授業で制作した油絵などの美術作品、書道、写真部員が撮った写真--。中には
2メートルほどの大きなオブジェもある。
 「(教育現場で)美術(の重要性)が低迷し、他の教科に傾いてきている」と石田さんはその
狙いを語る。「作品には必ず訴えたいことがある。時代や世界を上から見渡す能力を身に
着けてほしい」
 こうした取り組みもあって、美術部は躍進を遂げている。県芸術文化祭では9年連続で
少なくとも2人が全国大会に出場。一般の美術展に出品する生徒も増えてきた。2016年
には中国・上海で夏合宿を敢行した。現地のプロアーティストと交流し、美術館を巡って
「現代性」や「国際性」を吸収したという。
 3年生で部長の萩原佑実さん(17)は「多くの人に見られることでインスピレーションや
メッセージ性が高められる。鑑賞する側の生徒にもいい習慣になっている」と実感している。
【松本光樹】=次回は5月16日に掲載
 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

卒業生「私の思い出」募集
 県立甲府一高卒業生のみなさんの「私の思い出」を募集します。300字程度で、
学校生活や恩師、友人との思い出、またその後の人生に与えた影響などをお書きください。
卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、
〒100-8051、毎日新聞地方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合は
shuto@mainichi.co.jpへ。いただいた「思い出」は、紙面や毎日新聞ニュースサイトで
紹介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。

 ■人物略歴
たけうち・ひろあき
 1960年、甲府市生まれ。慶大商学部を卒業後、集英社の契約スタッフとして勤務。
84年、コンテンツ制作会社「シンク」を設立し、CGアニメーションやデジタルコンテンツ
を手掛けた。プロデューサーとしての代表作は「アニマトリックス」「鉄コン筋クリート」
「秒速5センチメートル」。

 2017年東京同窓会の演出は竹内宏彰氏が行いました。
 日新鍾の12ページ以降に竹内氏の記事が記載されております。





ぐるっと首都圏・母校をたずねる  毎日新聞2018年5月16日 地方版
山梨県立甲府一高/6 成長させてくれた舞台 筒井真理子さん
(S54年卒) /東京

 ◆女優・筒井真理子さん=1978年度卒

 女優の筒井真理子さん(57)=1978年度卒=は舞台出身の実力派として知られ、映画、
ドラマなどでも活躍しています。山梨県立甲府一高時代、応援練習やクラブ活動などを通じて
心身がたくましくなったそうです。友人や恩師との出会いにも恵まれ「一高は自分を成長させ
てくれた舞台だった」と振り返ります。【長谷川隆】

 父はアクセサリーの製造会社を甲府市内で経営していました。兄弟は姉、姉、兄、私の4人です。
両親はおおらかな人で、母からは「他人への愛をケチってはいけないよ」と教えられました。
そのせいか、中学時代の私はどちらかと言えば繊細で、欲のないタイプだったと思います。
 高校は憧れの一高に進むことができました。旧制中の流れをくむ剛健気質の伝統校で、
入学早々にその“洗礼”を受けました。応援練習です。
 1年生は午後から講堂に集められ、1週間毎日、はかま姿の応援団長のかけ声や迫力ある
ブラスバンドの演奏に合わせ「フレー、フレー、イチコウ」と声を出し、手拍子を取りました。
約2時間ぶっ続けで、手を下ろすことができず、本当にきつかった。でも、そのおかげで、
今でも応援歌を口ずさむことができます。
 中学はブラスバンド部でしたが、一高ではフィギュアスケート部に入りました。バレエに
子どもの頃から憧れ、体を使って表現するところが似ていると思ったからでしょうか。忘れら
れないのは、ハードな夏合宿です。他高と合同で東京に遠征しました。朝はプリンスホテルの
リンクで客のいない営業前に思い切り練習しました。日中は炎天下、砂浜でランニングです。
砂に足を取られながら、前を走る男子部員に必死についていきました。
 4年前、ある民放の番組で約30年ぶりにフィギュアスケートのスピンに挑戦しました。
クルクルクルと3回転、案外自然にできました。若い時に体で覚えたことは忘れないものですね。
 一高は伝統の強行遠足が毎年10月にあります。女子は山梨県の旧高根町(現北杜市)から
長野県小海町まで約40キロのコースに挑みます。3年時の強行遠足で私は3位になりました。
トップの子に続き、同級生1人と1年生の1人の計3人で励まし合いながら走りました。同級生が
体育大学へ進学を希望していたので、先にゴールしてもらいました。
 話のできる友人にも大勢恵まれました。「人はどこから来て、どこに行くのか」。昼休み、
日の当たる中庭の花壇の前で弁当を広げ、そんな哲学的なテーマについて友人と語り合う
ことも楽しみの一つでした。
 一高には“名物先生”がたくさんいて、その一人が国語の望月弘美先生(男性)でした。
ベタベタの甲州弁の授業は文学的で内容が濃く、印象に残っています。先生は演劇部の
顧問だったこともあり、私が女優になったことを喜んでくれました。帰郷時にお会いした際は
「頑張って続けろよ」と励ましてくださいました。
 高校時代は女優になるとは思っていませんでした。でも、一高で培った体力や経験、
自主性を重んじる校風の中で身に着けた「自分で考える姿勢」は、女優になった今も大いに
役立っています。同窓生から応援してもらうことも少なくありません。一高に行って本当に
良かったと思います。
存在感放つ「ア・カペラ部」
 伝統のある甲府一高で、2013年3月に部員約10人で発足した「ア・カペラ部」が存在感を
放っている。歴史は浅いが、合唱コンクールの県大会で金賞に輝くなど、実力は折り紙付きだ。
 一高では音楽は吹奏楽部の活動が盛んだ。ア・カペラは同好会としては存在していたが、
生徒が集まらず長く休止状態だった。6年前に赴任した音楽教諭で現在の顧問、
中源博さん(32)が「音楽で人を幸せにしたい」とメンバー集めに奔走し、部に昇格させた。
 週6日の練習を重ね、主に病院や障害者施設、刑務所に出向いて歌声を披露している。
現在の部員は2、3年生だけで21人で、部長の岩下正和さん(3年)は「自分たちも楽し
みながら歌うことを心掛けている」という。
 発足した年も含め、これまでに3度、全日本合唱コンクール県大会で金賞を受賞した。
3月には3回目の定期演奏会を甲府市で開き、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を熱演した。
会場には300人以上が駆け付け、地元に知られる存在にもなった。日々の指導にあたる
中さんは「生徒たちは(指導・助言を)素直に聴いてくれる。これからも、聴いている人が
笑顔になるような音楽を届けたい」と話す。【井川諒太郎】=次回は23日に掲載

 ツイッター @mainichi_shuto
 フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

 ■人物略歴
つつい・まりこ
 1960年、甲府市生まれ。早大社会科学部卒。大学時代、鴻上尚史さんが主宰する
「第三舞台」に感銘を受けて入団。以後、舞台以外にも活躍の場を広げ、多彩な役をこなす。
NHK朝ドラ「花子とアン」などにも出演。カンヌ国際映画祭の審査員賞を受賞した
映画「淵に立つ」で、第71回毎日映画コンクール女優主演賞などを受けた。








ぐるっと首都圏・母校をたずねる   毎日新聞2018年5月23日 地方版
山梨県立甲府一高/7 卒業後も続く縁、大切に 輿水精一さん(S43年卒) 
/東京

 ◆サントリー名誉チーフブレンダー・輿水精一さん=1967年度卒

 サントリーの名誉チーフブレンダー、輿水精一さん(68)=1967年度卒=は
山梨県立甲府一高時代、天文部員でした。原酒をブレンドしてウイスキーの味を
生み出すブレンダーの仕事と、天体観測の共通点は「忍耐力」だと言います。
かつての同級生から注文を受けてオリジナルウイスキーを完成させるなど、
卒業後も続く母校との縁を大切にしています。【山内真弓】

 オリジナルウイスキーは、「よん燦(さん)会」(昭和43年3月卒の甲府一高同期会

の注文で作りました。チーフブレンダー時代の特に印象深い仕事です。ウイスキーの
価値は「時間」です。年を重ねた同級生からの依頼は、感慨深かったです。
 (卒業生の多くが)山梨生まれなので(山梨にあるサントリーの)白州蒸留所の
原酒を中心に使いました。「白州の自然を感じさせるような味」がコンセプトです。
ウイスキーに親しみのない人が飲んでもおいしい、飲みやすい。そう思える味を目指しました。
 同級生は642人で、それぞれ個性を持っています。ストレート、ハイボール、
水割り--。飲む場面によって違う顔が見える味にもしたいと思いました。古い原酒を
含めて、年度が異なるさまざまなお酒のブレンドは気を使いました。そして「ブレンダー
として吸収してきた全てを出そう」と1年以上かけて完成させたのです。ラベルも話し
合って決めました。
 味は評判がよく、何本も買って知人にプレゼントした同級生もいたようです。思わぬ
ところで「あのウイスキー飲みましたよ」と言われたりします。同級生は今も仲が良く、
年賀状や、メーリングリストなどで連絡を取り合っています。「カラオケの会をします」
なんてメールがよく流れています。
 朝日小、山梨大付中を経て進んだのが一高で、いずれも自宅から徒歩圏内です。
付中では1学年約170人のうち100人は一高に進学しました。一高へは自然の
流れで通い、バレーボール部と天文部に所属しました。
 幼いころから星が好きでした。甲府に住んでいたからこそ、星がきれいに見えたのです。
小学3年生のとき、一高の英語の先生だった野尻抱影さんの「天体と宇宙」という本を読み、
天体に興味を持ったのです。天文部では放課後に部員が部室に集まり、星が見えない
日中は、卓球台で卓球もしたこともあります。
 星がきれいに見えるのは月に数日です。「天気がいいし、今夜は○○座の流星群が
見えるぞ」となると試験前でも学校に残り、校庭で星を見たり、天文写真を撮ったりしました。
夕飯は学校前の売店で買ったかな。夜空を見ると「地球はすごい小さいんだな」という
俯瞰(ふかん)した感覚になり、わくわくしました。
 天体観測は(天気やタイミングなど)ひたすら星を待ちます。ブレンダーも、単調な
テイスティング(味や香りなどの調整)の連続です。テイスティングは満腹でやる仕事
ではありません。毎日一定のリズムを保つために、お昼には決まって天ぷらうどんを
食べています。でも、いつも新しい気づきがあります。だめな原酒だと思っていても、
ブレンドすると味が変わったりして、使い方次第でいい仕事をするのです。だから面白い。
天体観測とブレンダーの仕事は、忍耐力がいるところが似ていますかね。
生徒見守る「日新鐘」 卒業式に鳴り響く
 甲府一高の中庭に掲げられている日新鐘(にっしんしょう)は10代目の江口俊博校長
が1928年、新築の本館校舎の屋上に設置した。以来、一高生たちを見守り続けている。
 その名は中国の古典「大学」に由来す生徒見守る「日新鐘」 卒業式に鳴り響く
 甲府一高の中庭に掲げられている日新鐘(にっしんしょう)は10代目の江口俊博校長
が1928年、新築の本館校舎の屋上に設置した。以来、一高生たちを見守り続けている。
 その名は中国の古典「大学」に由来する。苟日新、日日新、又日新(まことに日に新たに、
日に日に新たに、また日に新たなり)--。新たな気持ちや考えを保ちながら、
日々向上と発展を求めることの大事さを説き、一高の校是の一つにもなっている。
江口校長は赴任先の学校に鐘を置き、一高の日新鐘は、現広島県立忠海高校の一誠鐘、
現長野県立長野高校の日新鐘に次いで3番目の鐘だった。
 設置当時は授業の始業・終業時に鳴らされたが、電動チャイムに切り替えられてからは
出番がなくなった。今では3月の卒業式に限って伝統の音を響かせている。卒業生たちは
3年間の思い出を胸に、鐘を鳴らして一高を巣立つ。
 校歌にも登場し、生徒会誌の名称も「日新鐘」だ。一高のシンボル的な存在で、
同窓会顧問の大西勉さん(77)は「日新鐘は一高の生徒にとってかけがえのない無形の財産。
卒業しても心に深く染みこんでいる」と話す。【井川諒太郎】=次回は30日に掲載

卒業生「私の思い出」募集
 県立甲府一高卒業生のみなさんの「私の思い出」を募集します。300字程度で、学校生活
や恩師、友人との思い出、またその後の人生に与えた影響などをお書きください。卒業年度、
氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100-8051、
毎日新聞地方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jpへ。
いただいた「思い出」は、紙面や毎日新聞ニュースサイトで紹介することがあります。
新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。

 ■人物略歴
こしみず・せいいち
 1949年、甲府市生まれ。山梨大工学部発酵生産学科卒。73年にサントリー入社。
貯蔵部門などを経て、99年にチーフブレンダー、2014年に名誉チーフブレンダーに就任。
ウイスキー「響21年」は昨年、国際酒類コンペで、世界の全ウイスキーの頂点となる
最高賞を受賞。15年にはウイスキー専門誌で日本人初の「殿堂入り」。65歳で
起業した「ハセラボ」では新たなウイスキー開発にも取り組む。「やまなし大使」


2016年3月12日  第19回 一紅会主催「春の講演会」 にて
   ウイスキーは「日本」の酒である との演題で講演





ぐるっと首都圏・母校をたずねる  毎日新聞2018年5月30日 地方版
山梨県立甲府一高/8止 卒業生ら、それぞれの思い出 /東京


 
4月から連載してきた「母校をたずねる」の山梨県立甲府一高編には、卒業生をはじめ、
多くの方々から反響が寄せられました。最終回の今回は、紙面と毎日新聞ニュースサイトで
募集した「私の思い出」の一部を紹介します。【まとめ・滝川大貴】

迫力の新入生歓迎行事 高知大名誉教授 中込照明さん(66)=1969年度卒(S45)、高知県芸西村
 上級生が皆、大人に見えた。入学式の後、生徒会主催の歓迎式典のようなものがあった。
新入生全員が体育館に集められ、竹刀を持った上級生が周りを取り囲み、どやしつける
といった感じだった。学校側公認の歓迎行事の一つだったと思われるが、今時の高校で
こんなことをしたら問題になるだろう。生徒会長の訓話も堂々とし、先生以上の迫力満点の印象だった。
 ある時、上級生と二人で川沿いの道を歩いて高校に向かう途中、竹刀を持って新入生
を取り囲んでいた生徒の一人らしく、「歓迎は怖かったか」と聞いてきた。何と答えたかは
覚えていないが、弟を導くように(やさしく)校門まで一緒に来てくれたことを記憶している。
 教師陣では美術の先生が特に印象に残っている。酒浸りだったが、全く嫌みがなかった。
「今日は外で写生だ。出来上がったら持ってこい。俺の講評は覚えておけ。後で役立つ」
といった調子だった。「この木は電信柱みたいだ。この雲は四角いな。なかなか幻想的な絵だ」。
そんな先生の講評を今でも覚えている。その後の人生に幾らか影響したのかもしれない。


一番居心地がよい場所 無職、名取和男さん(75)=1960年度卒(S36)、千葉県市原市
 58年に一高に入学しました。全県から優秀な生徒が集まり、当時は学期の試験の度に、
上から100位までの人の名前が張り出されました。私は小中学校では上位の成績でしたが、
一度もその中に入ったことはありませんでした。
 生徒のほとんどが大学進学を目指していました。1年から志望大学を決めている生徒も多く、
その受験科目以外は目もくれません。教師も、生徒が授業中、席にいれば授業とは関係ない
勉強をしていても黙認していました。芸大に進学した友人は、授業中に先生の似顔絵を描き、
見つけた先生が「うまい」と言って皆に披露しました。教師も生徒もおおらかでした。
 同級生とは同期会で今でも交流があります。年齢も同じで、故郷の話もできる仲間たちの集まりが、
一番居心地が良い場所になっています。


強行遠足 一高と、栃木高、交流よみがえる 無職 仲田征夫さん(72)=栃木県立栃木高校卒業、栃木市
 1962年7月、県立栃木高の生徒会長として一高を訪ねたことがあります。当時、一高と
栃木高の間では生徒会役員の交流があり、訪問の様子を学校新聞で報告していました。
62年の訪問では一高の「強行遠足」が話題になりました。
 訪問の前年、栃木高では約30キロの「強歩大会」が始まりました。当時、30年以上も
強行遠足を開催していた一高側に「事故は起きないのか」「費用はどれくらいなのか」と
質問をしました。一高生徒会からは、費用や安全面で学校側は神経をとがらせているものの、
生徒や卒業生からの「やめないでくれ」という希望が圧倒的だと説明されたのを覚えています。
 栃木高の強歩大会(現在は「栃高耐久レース」と名称変更)は今も継続しています。
一高もすごいですが、当時の強行遠足は今以上に過酷だったようです。記事を読んで、
半世紀以上も前の甲府の空気が懐かしくよみがえりました。


誇りを胸に前向き歩く 無職 神宮司房義さん(82)=1954年度卒(S30)、東京都三鷹市
 質実剛建の校風は強行遠足の伝統行事に表れている。55年当時は昼夜兼行で24時間、
甲府市から長野県松本市まで約100キロ歩いた。初めて参加した私は途中でリタイアした。
足の爪が全部血まめになり、潰れかけていた。でも、自分の限界にチャレンジした経験は
後の人生に影響を与えた。
 満50歳の誕生日、甲府から松本まで再チャレンジした。もっとも昼夜兼行ではなく、
1日8時間、3日かけた。そして80歳直前の3年前、脳梗塞(こうそく)になり、後遺症で
歩行困難となってしまったが、強行遠足を思い出しては頑張って自分の足で歩いている。
一高で学んだことを誇りに思っている。
伝統行事 根気、忍耐培う
 
主婦 戸川(旧姓鈴木)智子さん(73)=1963年度卒(S39)、神奈川県横須賀市
 伝統行事「強行遠足」が印象深いです。女子は半日で、甲府市から長野県富士見町
までのコース(3年の時に長野県・松原湖までに変更)。男子は1日で、同県松本市の先
の大町市まで行くコースでした。体育でも5000メートル、1万メートルと、よく走っていました。
母の口癖「鶏口となるも牛後となるなかれ」が頭にちらつき朝夕、荒川の土手で練習を重ねました。
 女子の部で1年生の時は2位、2、3年生の時は1位と頑張りました。途中の給水場で
飲んだ麦茶がおいしかったです。先に出発した男子を追い越した時には氷砂糖をもらいました。
口に含んだら本当に甘かった。ゴールにたどり着いた時、靴を脱いだら血まめが潰れていました。
よくぞ、頑張った。自分の根気、忍耐に乾杯!
 社会人になってからも「その時を思えば、大概のことは大丈夫」の気持ちで人生を過ごせました。